2017年2月1日水曜日

昭和の新聞記事から。

今日の天気は晴れ。
最低気温は空港での-21.4℃で「最も寒い時期を下回る」、最高気温は中標津での-1.1℃で「2月下旬並」。


西村武重氏の新聞記事コレクションを見ていたら、
旧国鉄標津線についての語り部談義の記事が綴ってあって興味深かったのでご紹介します。

 
北海道新聞 昭和35年2月21日付



司 会 国鉄標津線が開通したころの思い出をどうぞ。
佐 藤 厚床―中標津間は昭和九年に開通したが、はじめ海岸沿いに敷設されるという情報があり、あわてて木下成太郎代議士に電報を打ったところ、八十四字打電したのに故障か何かで先方の手元には五十字の電文しか届かず、何が何やらわからぬ電文になってしまった。当時は中標津から電話で標津郵便局を呼び出し電報を打つのだからしばしばまちがえて困った.。

瀬 野 いよいよ鉄道工事がはじまることになってまもなく賃金不払い事件がおきて大さわぎになりましたね。

佐々木 あれは××組の下請けが労賃などを着服してしまったんだ。

瀬 野 ともかく相手は国鉄というので、街の商店などはどんどん品物を入れたのがいざ精算という時になって金はないというだんから大変なさわぎだ。倒産した店もあったほどだ。

福 井 冷害凶作の翌年(昭和8年)だったのでこの工事に働きに出た人が多かったが、十二月から四月ま で働き、百二十円ぐらいもらえると思っていたのが払えぬというんですから怒ったりわめていたりで…。

川 口 総額で二万八千円ほどの工事費だと聞いていた。

佐 藤 その頃の標津村の総予算が七千円ぐらいだったのだから二万八千円は大金だ。

瀬 野 だから昭和十二年の標茶―標津間の鉄道工事のときは商人も商品の仕送りはできるだけさけていた。
   
     以下中略

標津線開通が及ぼす影響がいかに大きかったが、改めて感じます。
冷害凶作という死活問題にに対して、道庁に訴える他にも旧国鉄標津線の開通工事に従事したりして必死になっていたことがわかりました。

当時の120円は、現在でいうと20~30万円くらいになるのではないかと思いますが、(※算出方法によって金額はことなります。)
 その労働の対価がもらえないというのだから、怒るのも当然ですよね。

個人的には、こちらも気になりました。
↓大相撲 昭和45年九州場所星取表
 
この年、昭和45年に柏戸が引退し、「柏鵬」(柏戸・大鵬)時代が終わり、時代は「北玉」(北の富士・玉の海)時代へと向かいます。
そんな中、名大関貴ノ花が関脇にいたり、後に開幕優勝を果たす栃東がいたりと興味深いです。
大関に清国、大麒麟、琴桜、関脇に藤ノ川、小結に竜虎、前頭に三重の海、長谷川と…。
名だたる北海道出身力士も多いですし、大相撲史をふりかえる上ではファンの方なら感慨もひとしおではないかと思いました。
 
あ!そうそう大横綱輪島は、この年の番付で十両筆頭でした!
成績は9勝6敗。
 
少々雑談がすぎました…(-_-;)

本日のブログは、学芸員のMでした。


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